森山の現代文 第1講 近代的世界観を知る

 現代文には、「近代」ということばが多く使われ、近代的なものの見方や考え方(=世界観)が説明されます。でも私たちが今暮らしているのは「現代」です。ではなぜ、「現代」に暮らす私たちが「近代」の世界観を知らなければならないのでしょうか?

 実は「現代」の私たちが常識だと思っていることの多くは「近代」に生み出されたものです。例えば現代の私たちは「病気」が病原菌によって引き起こされるということを知っています。ですから、この病原菌を体内から取り除くのが現代の基本的な病気の治療となります。ところが近代以前においては、「病気」は、なにかよくないものが身体の中に入り込んだり取り憑いたりしておこると考えられていました。そこで近代以前の病気の治療には、お祓いやお祈りといった儀式的なものが多く用いられていました。現代の私たちには少し想像がつきませんね。

 あるいは、「時間」という考え方も近代になって生み出されたものです。近代以前において「時間」というものは、日の出・日没、朝・昼・夕・夜、春・夏・秋・冬といった大雑把な区切り方としてしか存在しませんでした。また、実際に感じる時間も、日長時間が長い夏よりも、日長時間が短い冬の方が、一日の時間の流れを早く感じたでしょう。ところが、近代以降(特に精巧な時計の発達につれ)、時間が何時何分何秒と細分化され、またそれに伴い流れる時間は昼も夜も、夏も冬、すべて均質に同等であることを発見したのです。

 このように「現代」の私たちにとって常識とされている多くのことが、「近代」において生み出された「近代的世界観」に支えられているのです。

 しかし、その一方で、この「近代的世界観」が「現代」に大きな影響を与え、様々な問題を生み出してきたということはないでしょうか。

 例えば「病気」は全て病原菌によって生み出され、その病原菌を取り除くことだけで治療可能なのでしょうか。身体に悪いところはどこにもないのに、精神的な部分からお腹が痛くなるということはないのでしょうか。あるいは、「時間」が何時何分何秒と細分化されることにより私たちの生活が時間に追われはじめ、私たちの生活からゆとりや楽しみを奪い取っているのではないでしょうか。

 「現代」において常識と思われていることをもう一度疑い、その常識を作り出した「近代」の世界観をもう一度見直し、新たな視点でそれを乗り越えていく必要があるのではないでしょうか? 「現代」に暮らす私たちが「近代的世界観」を知らなければならない理由はまさにここにあるのです。

 今ここにある「現代」は、まだ先のわからない「未来」につながっています。先のわからない「未来」で確かな幸せな暮らしを作り上げていくために、「近代的世界観」を知らなければならないのです。